斜陽
斜陽
太宰治
朝、食堂でスウプをひとさじ
早晨,母親在餐廳裡輕快地
すっと吸ってお母さんまま
輕快地啜了一匙子湯,
「あ」
“啊!”
と幽かな叫び聲をお挙げになった
突然小聲地叫了一聲:
「髪の毛?」
“有頭髮? ”
スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、
那就是湯裡有什麼臟東西。
と思った。
我是這樣想的
「いいえ」
“不。”
お母さんまは、何事も無かったように、
母親像是什麼事也沒有,
またひらりと一そじ、
之後又輕巧地
スウプをお口に流し込み、
把一匙子湯送到嘴裡,
すましてお顔を橫に向け、
裝做若無其事的樣子,
お勝手の窓の、満開の山桜に視線を送り、
轉臉望著廚房窗外盛開的櫻桃,
そうしてお顔を橫に向けたまま、
就這樣側著臉又將一匙子湯
またひらりと一そじ、
非常輕巧地
スウプを小さなお唇のあいだに滑り込ませた。
倒進小小的雙唇之間。
ヒラリ、という形容は、
用“輕巧”這個詞
お母さんまの場合、決して誇張では無い。
來形容我母親,這絕不是誇張。
婦人雑誌などに出ているお食事のいただき方などとは、
她的用餐方式同婦女雜誌
てんでまるで、違っていらっしゃる。
之類介紹的迥然不同。
スウプのいただきかたにしても、
就拿喝湯來講吧,
私たちなら、お皿の上にすこしうつむき、
我們都是在盤子前面略微低下頭去,
そうしてスプウンを橫に持ってスウプを掬い、
橫捏著匙子把湯舀起來,
スプウンを橫にしたまま口元に運んでいただくのだけれども、
然後依舊橫捏著匙子將它送到嘴邊喝的,
お母さんまは左手のお指を軽くテーブルの縁にかけて、
但是母親卻把左手指輕輕地放在餐桌邊上,
上體をかがめる事も無く、
挺著身子,
お顔をしゃんと挙げて、
揚著頭,
お皿をろくに見もせずスプウンを橫にしてさっと掬って、
連盤子也不看一看,橫捏著匙予就一下子舀起湯來,
それから、燕のように、
然後像燕子那樣
とでも形容したいくらいに軽く鮮やかにスプウンをお口と直角になるように持ち運んで、
真想用這個字眼來形容
スプウンの尖端から、
輕巧而又優美地將匙子尖端對著嘴,
スウプをお唇のあいだに流し込むのである。
就這樣把湯倒到嘴裡去。
そうして、無心そうにあちこち傍見などなさりながら、
她一面隨意地左顧右盼,一面極其輕巧地操著匙子,
ひらりひらりと、
輕輕地輕輕地
まるで小さな翼のようにスプウンをあつかい、
匙子簡直像小翅膀那樣輕飄飄地動著,
スウプをいできもおこぼしになる事も無いし、
湯一滴也不會潑出來,
吸う音もお皿の音も、
同時啜湯或者碰響盤子的聲音。
ちっともお立てにならぬのだ。
一點也不會發出
それは所謂正式禮法にかなったいただき方では無いかも知れないけれども
這種吃法可能不符合所謂的正式禮節,
私の目には、とても可愛らしく、
可是在我看來卻非常可愛,
それこそほんものみたいに見える。
那才是名副其實的吃法。